ネット麻雀の到来
麻雀といえば、かつては必ずプレイヤー4人が同じ空間に所在しなければ成立しないゲームであった。大学生などが、家で徹マン(いわゆる徹夜麻雀)をするとなると、人数の確保・決定は重要課題となる。4人ちょうどとすると、誰かが睡魔にノックアウトされた際、メンツが不足する。かといって5人以上にすると、常時誰かがヒマを持て余してしまう。
「メンツに困らない麻雀荘に行け」という助言で全てが解決するかというと、そうもいかない。筆者が大学生だった頃の街の麻雀荘は印象が現在ほど明るくなく、とりわけ麻雀入門者にとっては敷居が高いものであった。今でも、少なくないファンにとって、タバコくさい麻雀荘にまでわざわざ足を伸ばすのはたいがい苦痛な体験だし、18歳未満が楽しめない、地方等ではそもそも麻雀荘が少なすぎる、など、障壁が残っている。
それに対して現在、入門者でも気軽に楽しめる麻雀空間として、ネット麻雀が普及した。思いつくまま利点を列挙するだけでも、ずいぶんとある。
・メンツ探しに困らない
・好きな時間に開始でき、疲れたらやめればよい
・高校生や中学生でも安心して楽しめる
・点数計算ができない入門者でも参加できる
・チョンボなどをしても、対面しての失敗よりもずいぶんとストレスがない
・身近にいない上級者と打てる
・強くなり有名になると、全国レベルで名が知られる可能性がある
このように、入門者にとっても上級者にとっても有益な部分を持つネット麻雀が、(乱立気味の個々のネット麻雀荘がどうかは別として、全体として)ある程度の成功を収めることは当然といえよう。
ネット麻雀の成功は、そもそもの麻雀プレイ人口の増加という観点において、(ネットとの対比として呼ぶところの)「リアル麻雀」を含む麻雀界全体に対して、相当好影響を与えている。女流プロ等の努力によるところも大きいが、ようやく、麻雀のイメージが、「ギャンブル」などの暗いものから、「ゲーム」というまともな、社会的な、低俗でないものへと転換されつつある。
本稿ではしかし、ネット麻雀がもたらした莫大な利点については留保しつつ、リアルからネットへと引き継がれ、新たに台頭してきた「オカルト(不合理的概念一般をこう呼ぶ)」について語ってみたい。
旧来のオカルト
旧来のオカルトを代表する単語を挙げよといわれたならば、何と答えるだろうか。
おそらく、「流れ」と答えるのが正解だ。「ツモの流れ」「着順の流れ」「アガれない流れ」など様々な用いられ方をし、人により、また発話のタイミングにより、定義がまちまちであるが、多くは不合理な概念を指す。というよりも、麻雀において明確化されていないほとんど全ての概念が、この「ナガレ」なる一単語に塗りこめられる風習があり、雀士の正確な認識・技術向上の阻害要因となってきた側面もある。「ナガレ」の中にも合理的な解釈可能性が残されているものも存在すると考えられるが、それを別名称で再定義して検証し、救い出すといった作業がないまま放置されてしまっているため、特定の「ナガレ」現象が実在するか否かは、常に謎である。
いずれにせよ、容易に検証可能なはずの何かを敢えて検証せずにおくのは合理的態度とは呼びがたく、広義では不合理的概念であると捉えることも可能だろう。事実、筆者は「ナガレ」と呼ばれるもののうちいくつかを明確に定義した上で統計を取ったことがあるが、当該「ナガレ」の存在は認められなかった。必然的な結果として、そのような作業を行った際、「ナガレはそういう意味ではない」「ナガレの定義が一面的だ」という反発を招いたわけだが、それは「ナガレ」という概念のゴミバコに過剰な信頼を寄せているからであって、筆者のせいではない。自らの意味する「ナガレ」をしっかりと定義し、統計を取るなりして存在証明すればよろしかろう。
もちろん、「ナガレ」以外にもオカルトは存在する。「裏スジは危険」とか「またぎスジ(リーチ宣言牌の周辺)は危険」といった信念が強く残っているが、全称命題として用いる限りにおいて、これらは虚偽である。裏スジはそうでない牌より若干安全だし、リーチ宣言牌の周囲で危険となるのは、19牌又は2つ外側の牌だけである【1】。
ただ、「ナガレ」と呼ばれない迷信の数々については、本稿では棚上げする。なぜならば、「ナガレ」と呼ばれない限りにおいて、その迷信性(あるいは真実性)が上述のようにある程度検証可能だからである。検証可能な概念は「仮説」になり得るという良心的解釈をすれば、結果如何はともかく、それらは不合理の温床とはならない。
「ナガレ」こそが、いや、「ナガレがあるか、ないか」と問う(定義せずに、検証可能性を持たせずに語る)メンタリティこそが、いわば、旧来の、昭和時代から連綿と続くオカルトの本質なのである。
「オカルト」もリアルからネットへ――デジタル的オカルトの誕生、あるいは表現のすすめ 2/5