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見出し

「オカルト」もリアルからネットへ ――
デジタル的オカルトの誕生、あるいは表現のすすめ 3/5


オカルトのメンタリティ

だいたい、なぜこんなバカげた事態が生ずるのだろうか。彼らとて、まさか会社の職務上の判断に際して、この種の根拠なき、愚かしい主張をしたりする人間ではなかろう。「ウチの営業成績には、50件の壁ができるよう、誰かの陰謀がある」と騒ぐことはしなかろう……たぶん。

ここには、単に「偶然性に対する無理解」と斬って捨てるには忍びない何かがある。麻雀なるもののうちに、少なくともかつて存在し、今でもいくばくか必要とされるある種の神話めいたものへの憧憬が、そこにある。

悪い方の例から先に述べる。

自分が負けるのは、かつては「ナガレ」のせいであった。ゲームの性質上、異常に高い偶然性が存在することを認めず、「必然」に落とし込むには、ある程度制御対象となり得る「ナガレ」が必要とされた。そして、「ナガレ」をもっと上手に操ることによって、自分はアカギや桜井章一氏に少しでも近づくことが可能なのだと信じていたかったのだ。そうした壮大な自己ストーリーをもってしか、毎日の「単調なめくりあい」に耐えられない部分もあったのかと思う。

だが、現在は様相が違う。リーチ率だの和了率だの平均順位だの、「どこかの頭でっかちの合理主義者」が作った憎たらしい各種の指標が幅を利かせ、簡単に言い訳ができなくなってしまった。ではどうするか。システムに問題があると考えるのが手っ取り早い。ネット雀荘に課金している卑しいプレイヤーは、毎度のように優遇されたツモをもらい、課金していない自分は不利になる。成績の良い打ち手とは、汚いことにネットの牌山のクセを熟知し、悪用しているに違いないのだ。しょせん金のかかっていないゲームだからと、いい加減に打つプレイヤーが場を乱さなければ、当然自分はもっともっと勝てるに違いないではないか。そうでなければ、「リアルでは強い」(という印象を持っている)自分が勝てないことを、どう合理的に説明できるというのか――!

麻雀に見る夢

いささか悪意を持って記述したが、ようするに彼らの課題は、「いかにして夢を取り戻すか」という問題に還元可能かもしれぬ。

彼らには、それがちっぽけなプライドのためであれ、麻雀界全体のためを思ってであれ、何かしら夢があった。だが、前世紀的なオカルトが衰退し、近代麻雀をはじめとする雑誌からヒーローたちが消えゆく中、彼らは大切な何かを喪失しつつある。少なくとも、麻雀の中、あるいはその周辺部に、物語性を取り戻してやらねばならぬ。

しかし、いかにして?

単純に強くて長期的な戦績を残しているネット上の有名プレイヤーや、偶然かもしれずとも大会で連続優勝した選手、あるいは著書がたまたまヒットした「とつげき某」は良いだろう! 単なる傍観者ではないか! 自分たちは、今後どうすればこの世界の楽しみを享受できるのか!

さりとて、長期成績を残したプレイヤーが今後麻雀界で大活躍できるかと言えばそうではない。大半は普通にサラリーマンになり、麻雀とは疎遠になってゆくだろう。大会優勝選手だって大差ない。よほどの大御所を除いて、かつて近代麻雀で騒がれた選手たちの名前は、実はそれほど人々の記憶に残っていない。筆者もまた、麻雀界で食っていけるならとっくに国家公務員など辞めているだろうが、そういうわけにはいかない。

では、われわれに何ができるのか。ひとまずは「表現する」という作法を身につけたい。よほど強烈な実力主義の世界は特例として、およそこの世の全ての世界において、表現なくば成功はあり得ない。表現とは何か。あるいはそれを享受する者のアドレナリンを放出させることであり、あるいは思考を揺さぶることであり、ないしは自らを別の地平へ導くための道標を造ることだ。



「オカルト」もリアルからネットへ――デジタル的オカルトの誕生、あるいは表現のすすめ 4/5