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「オカルト」もリアルからネットへ ――
デジタル的オカルトの誕生、あるいは表現のすすめ 4/5


強度なき競技としての麻雀

麻雀は、相対的に言って、強度【7】の低い競技である。スポーツとは圧倒的に違うし、将棋とも異なる。スポーツは、競技そのものが鑑賞に堪え得る。ルールさえわからずとも、K-1等の格闘技で鮮やかにハイキックが決まる瞬間を目撃すれば、脳内に衝撃が走る。野球やゴルフになると少しわかりにくくなるが、「機敏な動き」や「飛距離」など、ある程度伝わるだろう何かを保有している。将棋はどうか。相当辛くなってくるけれども、一流プロの明晰な一打による形勢の逆転等には、思わず唸らされるものだ。とりわけ、伝説的にそれが語り継がれるとき、われわれはそこに素朴に用意された神話性に、さほど違和感を覚えることもなく憧憬を抱くのではなかろうか 【8】

対する麻雀は、特定の1打が「すばらしい」かどうかさえ、観戦者に届きづらい。また、上手な人ほど、ノーマルな打ち方をしがちなものだ。「こんな意外な一打が!?」と思わせる打ち方を連発していては、麻雀では勝てないからだ。せいぜい、何かうまいこと凌いで大きな手をアガった際に、「おおー」となる程度で、なおかつ、それさえも「でも、こっち掴んでたら終わってたよね……」という冷淡さとともに、皮肉にも封じられかねない。結局運がよかっただけなんじゃないの、と。

事実、それもそうだ。イチローの俊敏な動き、羽生善治プロの苦渋の一打は、結果がうまくいかずとも、背景にあるコンテクストもあわせながら、強度となり得る。だが、麻雀の世界には大したコンテクストも存在しない。プロが一般のプレイヤーやマンガ家と対戦して負けてしまうのは、もちろんゲームの性質上致し方ない。本当はそこを責めてはいけない。だけれども、そういった事実を理解していない大半のアマチュアからすれば、「プロって……」という倦怠感が残るのもわかる。

だからこそ、かの小島先生は「魅せる麻雀」にこだわったのではなかったか。アマチュアからして「なぜそんな一打を!?」と思わせる(恐らくは不利になる)一打を敢えて選択し、(多くは失敗しただろうが)しばしばアマチュアを魅了した。現在の麻雀漫画において、主人公たちがこぞって「意外な一打」を放つ義務を負っているのも、そうしなければ「すごさ」が伝わらないという、麻雀という競技における強度の低さの証左に他ならぬではないか。



「オカルト」もリアルからネットへ――デジタル的オカルトの誕生、あるいは表現のすすめ 5/5


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*7 ここで、「強度」という語を、「意味」の対比として用いる。長期的に見れば、麻雀で強くなることに大した「意味」はない。しかし、強い自分が勝つ瞬間、それは濃密な快楽の時間として、すなわち「強度」としてわれわれに享受される。「なぜそうするの?」と聞かれて、社会的に「必要」とされる何かをあっけらかんと提示しながら「○○のためです」と答えられる何かを「意味」のあるものと呼び、そうではないが自分にとって必要だと感じられる刹那的な何かを「強度」と呼ぶ。

*8 桜井章一氏が、麻雀外の世界で表現者として大成功を収めているのは、このような事態による部分も大きかろう。